柚木麻子氏の小説『BUTTER』の主人公は女子カーストで上位にいるタイプの女性(いわゆる「女子校の王子様」タイプのハンサムウーマン)なので、桐野夏生氏の『グロテスク』の主要な語り手〈わたし〉のような負け組の「性悪女」にならずに済んだのだろう。それに対して、問題の女性犯罪者〈カジマナ〉は嫉妬と羨望に取り憑かれたのかもしれない。
カジマナは、岡崎京子氏の『ヘルタースケルター』のヒロイン〈りりこ〉のように自分の妹には優しかったようだが、仮にカジマナの妹が『グロテスク』のユリコのような美女だったらそうはいかなかっただろう。カジマナの妹は、姉にとっては同性として脅威となる存在ではなかったからこそ、かえって姉の保護欲をかき立てたのだろう。女が3人いれば「政治」が生まれる。
かつて、評論家の草森紳一氏は「男が政治を牛耳っている限り、女は政治的動物であり得る」と書いたが、女性の「政治的動物」としての資質はむしろ、同性同士の関係性においてこそ試されるのだ。そして、この小説はある程度の「強者女性」を主人公にしたからこそ、性善説的な価値観の話に出来たのではないかと、私は思う。
今はすでに引退した元女優の江角マキコ氏とは、ある程度の「強者女性」というイメージで人気を博した人物だったが、「下手なことしなければ大人気確定の人なのになぜかピンポイントでその下手なことをしてしまった」人物である。
ある人があるサイトで『ウマ娘』版オルフェーヴルについてこう言っていた。
《下手なことしなければ大人気確定の馬なのになぜかピンポイントでその下手なことをしてしまった》
その人が言う「下手なこと」並びに「ピンポイント」とは多分、私がウマ娘版オルフェーヴルに対して思う不満点(いや、「不満面」とすら言える大欠点だな)と同じだろう。史実のオルフェーヴルは、日本の歴代三冠馬の中で最も主人公の座にふさわしい成績やキャラクターを持つ名馬だが、ウマ娘版オルフェーヴルは逆に最も主人公にふさわしくないキャラクターに成り下がってしまった。
私にとって最愛の漫画は永野護氏の『ファイブスター物語』だが、その次に好きな漫画は王欣太氏の『蒼天航路』である。この漫画は三国志でお馴染みの曹操の一代記なのだが、脇役として登場する呂布と諸葛亮のキャラクター設定は、正直言って不快である。しかし、この漫画はあくまでも曹操が主人公であり、グロテスクな呂布と諸葛亮はあくまでも脇役である。それゆえに、まだ許せた。しかし、『ウマ娘』の登場人物としてのオルフェーヴルは、本来ならばオグリキャップと同様に主人公にふさわしい存在だったのだが、逆に最も主人公にふさわしくないキャラクターとして描かれてしまった。
ウマ娘版オルフェーヴルの「下手なことしなければ大人気確定の馬なのになぜかピンポイントでその下手なことをしてしまった」キャラクター設定とは、ズバリ『ウマ娘』プロジェクト最大の汚点ですらある。たとえ池添さんが許しても、私は許せないな。安田弘之氏の漫画『ショムニ』のテレビドラマ版だって、安田さん自身は認めても、私は好きにはなれない。世間では原作とは全く別の作品として「名作」だと評価されているが、江角マキコ氏が演じた坪井千夏が原作通りのショートヘアではないという時点で、私は観る気をなくしたのだ。シャーリーズ・セロンはアイリーン・ウォーノスを演じるために、あえて自分の外見を一時的に「醜化」させたのに。
すでに芸能界を引退した江角マキコ氏の全盛期は『ショムニ』出演の時点だっただろう。そして、第3期以前のテレビアニメ版『ウマ娘』のゴールドシップの容姿は、どことなく『ショムニ』の千夏としての江角氏に似ている。江角氏は某芸能人に対してマネージャーを使って嫌がらせをしたというスキャンダル以前は「サバサバした女」という良い(けど、どことなくうさんくさい)イメージだった。私は第3期以前のテレビアニメ版『ウマ娘』をまだ観ていないが、そんな私はインターネット上でアニメ版ゴルシを見るたびに、在りし日の江角氏を思い出して悲しくなる。
とりあえず、まあ。私は『ウマ娘』においてはオルフェーヴルよりも断然ゴールドシップ派である。オルフェがあのような「主人公失格」キャラクターに成り下がってしまった時点で、消去法的にゴルシの方がよっぽど主人公向きのキャラクターになってしまった(実際、すでにゴルシが主人公のギャグ漫画はあるのだが)。私は『シンデレラグレイ』の続編としてオルフェーヴルが主人公の漫画を読みたかったのだが、現時点ではゴルシの方がその続編の主人公にふさわしいような気すらしてきた。
【山下久美子 - バスルームから愛をこめて】
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